あれは俺がまだナムにいた頃さ。ベトコンの夜襲に遭い、その場は切り抜けたもののヒモーノ隊長を除いたプラトゥーン全員が負傷した。キャンプは河向こう、だが俺らは自力で泳げる状態じゃなかった。追っ手も背後に迫る。クソッ、せめて対岸に届くロープがあれば...
俺らがすべてを諦めたとき、ヒモーノさんは静かな声でこう言ったんだ。『竿ならここにあるぜ』
民明書房刊「巨根アラビアン・ナイト」より抜粋
月明かりの下、痛みで朦朧とする意識の中、俺は隊長がベルトに手をかけるのを見た。一瞬の閃光。俺は確かに、濁流の上を黒く光る不思議なものが、天翔る龍のように伸びていくのを見たんだ...
俺らは無我夢中でそれにしがみついた。握る手をしっかと受け止める柔らかさと強さ、そして傷つき追われている俺たちに『だいじょうぶさ』と諭すかのような不思議な温もり。俺たちは河を渡り始めた...
だが、プラトゥーンの半数がもう向こう岸に着いた頃さ。突然だった。闇に包まれたベトコン側の岸から、ヒモーノさんの苦しそうな呻き声が聞こえた。『隊長!!追っ手ですか!!』何ができるわけでもない俺は、だが叫ばずにはいられなかった。
『ああ...いや、それもそうなんだが...』『隊長ぉおおお!!!!』『...なんか我に返りそうだ...』
<君もそろそろ我にかえろうね、ひもちゃん
熱く滾っていた大木のようなそれが、瞬く間に硬度を失ってゆく。それまで感じていなかった水流が今は俺の傷ついた四肢を捥ぎ取ろうとせんばかりに打ち付ける。『隊長ぉお!!!!』俺が叫ぼうとしたまさにその時、『アメ公!』俺の知る唯一のベトナム語が対岸の闇に木霊した。
銃声。一発。二発。静寂...そして三発目。隊長、そう叫んだつもりだったが、俺の喉から声は出なかった。俺はその時初めて気づいた。祖国のためなどではなく、俺はこの人のために、今まで戦ってきたんだと。月がやけに綺麗な夜だった。『俺も、お供します...隊長...』
そこからの俺の記憶は混濁している。黒い水が怨念のように、無数の腕のように俺に絡みつく。殺してきた奴らの顔。故郷バージニアの月。そして狂ったように歪む、このベトナムの星空。俺の死。終わり。俺が覚悟を決めたその刹那、俺の手の中で、それは焼けるように熱い光を放った。
強烈な衝撃をまともに食らい、俺は体ごと吹き飛ばされ、宙を飛んだ。月がゆっくりと、俺の頭上で孤を描いている様を、無心に見つめていた。俺に意識があったのはそこまでだ。
気がつくと俺はベッドに横たわっていた。キャンプ内の野戦病院。俺は助かった。意識が回復すると同時に、苦痛とも、それを感じることができる喜びともつかない呻き声をあげた。右隣のベッドに点滴器具を設置していた衛生兵が振り向き、言った。『ヒモーノさん!』...?
『ああ、ご苦労。気がついたようだね』すぐそばで、懐かしい声がした。低く抑揚の無い、それでいてどこか温かさのある声。窮地において魔法のごとく人を落ち着かせる声。そして、俺がもう聴くことはないと思っていた声。『隊長、よく...よくご無事で...』
隊長の臀部には包帯が巻かれていた。『ただの生傷さ。少しの間、椅子に座ることができないらしい』『俺、銃声を聴きました...隊長...』俺の話を遮るように隊長は言った。『ゆっくり休め、サージェント』
先に岸に渡った仲間達から後で聞いた話だ。隊長はやはりあの時、数名のベトコンに囲まれた。隊長は川の正面を向いたままだったらしい。奇跡的に三発とも肉を擦っただけだったが、直立不動の隊長を見て、弾を無駄にするまでもない、そう思っただろうベトコンが一人、ベイオネットで突進した。
その直後だったらしい、俺が最後に見た、稲妻のような光が空を駆け抜けたのは。まだ川の中にいた俺以下数名、全員弾かれたように岸まで吹っ飛ばされた。仲間の幾人かは、その直後隊長が巨大な棒のようなものを振り回し、咆哮をあげるのを見たそうだ。木々の倒れる音。ベトコンどもの阿鼻叫喚...
そして次に閃光が走ると、キャンプ裏の岩山の頂上が突然爆発した。援護しに出てきた他の部隊も面食らった。奴らが対戦車砲持っているなんて聞いていない。ソ連の爆撃か。だが張りつめた沈黙を破って現れたのは、尻に半分に折れたベイオネットが刺さったまま、悠然と泳ぐヒモーノ隊長の姿だった。
岸にあがった隊長は、苦痛に顔を歪めて、『前立腺...直撃...』一言こう言い残して病棟に向かった。それ以外に、あの夜に何が起こったのか、隊長は結局誰にも話すことはなかったらしい。
その吹き飛ばされた山頂の方角、遥か一万里の彼方ベツレヘムで、その夜時を同じくして、マリアという名の処女が身ごもったという話が伝えられている。しかし、この両事件の関連性については、後年の綿密な調査によってもなお明らかにされることは無かった。
<完>
1 month ago
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